「シンギュラリティ・チャンティング」へようこそ。これは、メタバース上で行われる唱題行のワールドです。ここでは、自我や妄想にとらわれず、心のフィルターをクリアにする体験ができます。極寒の佐渡ヶ島で厳しい生活を送った日蓮の精神を感じながら、一つの心、異体同心に近づく旅を始めましょう。自分自身と他者との繋がりを深く感じることで、より平和な世界に一歩近づくことができます。
日蓮大聖人の御書から励ましの言葉:
日蓮大聖人の御書「開目抄」から励ましになる一節
原文
「諸難にあっても、疑う心なければ、自然に仏界に至るべし。諸天の加護がないからといって、疑うべからず。現世が安穏でないことを嘆いてはならぬ。私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである。拙い者の習性として、約束したことを、いざという時には忘れてしまうものである。」
意味
様々な困難に直面しても、信心を疑うことなく持ち続ければ、必ず仏の悟りの境地に至ることができる。たとえ諸天の守護が感じられなくても、疑ってはいけない。現世が苦難に満ちていることを嘆いてはいけない。私は弟子たちに朝晩、このことを説いてきたが、疑いの心を起こしてしまい、信心を捨ててしまったようである。人は弱いもので、いざという時には約束を忘れてしまうものである。
解説
この一節は、「開目抄」の中で、日蓮大聖人が弟子たちに向けて述べられた言葉です。当時、日蓮大聖人は佐渡流罪という厳しい状況下にありましたが、そのような中でも、弟子たちに信心を貫くことの大切さを説いています。
「諸難にあっても、疑う心なければ、自然に仏界に至るべし」という言葉は、苦難を乗り越えて仏の悟りを得るためには、信心を疑わないことが不可欠であることを示しています。たとえ困難に直面しても、信心を疑わずに持ち続ければ、必ず仏の加護を受け、悟りの境地に至ることができるという確信が込められています。
「諸天の加護がないからといって、疑うべからず」という言葉は、目に見えない守護の存在を感じられなくても、信心を疑ってはいけないことを示しています。仏法には、目に見えない様々な守護が存在しており、信心の強い者は常にその守護を受けることができます。たとえ守護を感じられなくても、疑いの心を起こさずに信心を貫き続けることが大切です。
「現世が安穏でないことを嘆いてはならぬ」という言葉は、現世の苦難は当然のことであると受け止め、嘆いてはいけないことを示しています。この世は苦しみと喜びが混在しており、苦難は修行の糧として与えられるものです。現世の苦難を嘆き、信心を疑ってしまうことは、仏法の修行を妨げることになります。
「私の弟子に朝夕、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆、信心を捨ててしまったようである」という言葉は、日蓮大聖人が弟子たちに繰り返し信心を説いてきたにもかかわらず、弟子たちが疑いの心を起こして信心を捨ててしまったことを嘆いている様子が伺えます。日蓮大聖人は、弟子たちが真の仏法の理解を得て、困難を乗り越えられるよう、心を込めて指導していたことが伝わってきます。
「拙い者の習性として、約束したことを、いざという時には忘れてしまうものである」という言葉は、日蓮大聖人自身が人間としての弱さを自覚し、弟子たちに語りかけている言葉です。人は誰でも弱いものであり、約束を忘れてしまうこともあるものです。しかし、日蓮大聖人は、そのような弱さを克服し、信心を貫き続けることが大切であると説いています。
出典
- 日蓮大聖人御書「開目抄」
この一節から得られる励まし
この一節は、私たちに以下のような励ましを与えてくれます。
- 信心を持って努力を続ければ、必ず困難を乗り越え、目標を達成することができる。
- 目に見えない守護の存在を信じ、感謝の気持ちを持つことが大切である。
- 現世の苦難は修行の糧であり、嘆いてはいけない。
- 師の教えをよく聞き、実践することが大切である。
- 人間としての弱さを自覚し、克服しようと努力することが大切である。
日蓮大聖人の力強い言葉は、私たちに勇気と希望を与えてくれます。困難に直面した時、この一節を思い出し、信心を貫いていきたいと思います。